金津~松岡
雨夜塚
汐越の松を見た芭蕉は、知人の大夢和尚が住職を務める松岡天龍寺へ金津を経由して向かった。道筋はわかっていないが、おそらく舟で北潟湖を渡り、蓮ヶ浦、坂口、千束と北陸道をとおり、金津宿に入ったと考えられる。金津宿の手前にあたる千束には、一里塚の跡が残っており、芭蕉もここで休息をとったかも知れない。
金津は、現在では芦原町と合併して「あわら市」となっているが、古くから北陸街道の宿場町として栄えた町である。戦国期には朝倉氏の重臣溝江氏(みぞえし)が支配し、江戸時代には福井藩の金津奉行所が置かれていた。
金津宿には、8月10日に入ったことになるが、芭蕉はここでにわか雨に遭遇し、金津宿の総持寺門前で雨宿りをしたとされる。
総持寺は天長年間(830年頃)に創建されたと伝わる真言宗智山派の古刹で、往時の面影失われたもの稲荷山に隣接して現存する。雨宿りの最中、地元の俳人が集まって旅情を慰めたことが伝承し、寛延2(1749)年には芭蕉の遺徳を慕って「雨夜塚」が建立されている。
塚はその後移転を繰り返したが現在はゆかりの総持寺に置かれている。場所は旧北陸道「坂の下」から東に入ったところである。
にわか雨が上がって陽がさすと、芭蕉は金津を後にして松岡へと向かった。
余波の碑
『おくのほそ道』を引用すれば、
天龍寺の長老、古き因みあれば尋ぬ。また、金沢の北枝といふ者、かりそめに見送りてこの所まで慕ひ来たる。所々の風景過さず思ひつづけて、折ふしあはれなる作意など聞こゆ。今すでに別れにのぞみて
物書て 扇引きさく 余波哉(なごりかな)
と詠んでいる。
天龍寺は松岡町春日にある曹洞宗の寺院で、承応2(1653)年松岡藩主松平昌勝が祖母清涼院の菩提のため建立したものである。福井藩から分藩した松岡藩5万石の松平家の菩提寺となった。
北枝は小松の生まれで金沢に住み、研師を業とした。芭蕉の弟子で加賀蕉門の中心的人物として重きをなした人物で、金沢から芭蕉に見送りを兼ねここまで同行してきたが、この地で別れることとなり、その名残惜しさを詠んだのがこの句である。
天龍寺は、勝山街道から松岡公園へ登る道路の右手(西側)にあり、境内には、句にちなんだ芭蕉と北枝のわかれの情景を像にした「余波の碑」が設置されており、隣接して、芭蕉没150年忌の天保申辰(1844)年に、同好の人達によって芭蕉塚が建てられ現在も残っている。
芭蕉は、その後永平寺を参詣している。道程ははっきりしないが、天龍寺から越坂峠越えで向かったと考えられる。
『おくのほそ道』を引用すれば
五十丁山に入て、永平寺を礼す。道元禅師の御寺也。
邦機千里を避て、かゝる山陰に跡をのこし給ふも、貴きゆへ有とかや。
と簡潔な記載となっている
永平寺は福井を代表する観光地なのどでここでは省略する。
【金津付近】
【松岡天龍寺】