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越前若狭歴史回廊・別館[観光のふくい

福井~浅水


0301-00.jpg祐海町洞哉宅跡
 永平寺を参詣し、いよいよ福井へ入ることになる。
 『おくのほそ道』を引用すれば

 「福井は三里計なれば、夕飯したゝめて出るに、たそかれの路たどたどし。爰に等栽と云古き隠士有。いづれの年にか、江戸に来りて予を尋。 遙十とせ余り也。いかに老さらぼひて有にや、将死けるにやと人に尋侍れば、いまだ存命して、そこそこと教ゆ。市中ひそかに引入て、あやしの小家に・・・」
 とある

 等栽とは洞哉のことで、10年前に江戸で親交のあった2人である。気が合ったのか芭蕉はここで2泊し、連れだって敦賀に向かっている。

 その芭蕉が宿泊した洞哉の家は、福井城下の足羽川南の祐海(ゆうかい)町にあったとされる。九十九橋から北陸道沿いに南下し、足羽山百坂から下りてきた道と北陸道が交わる辻を東に折れたところである。
 洞哉宅は寺社や武家屋敷と違い小さい町家であり、その正確な所在をたどることは困難であるが、後に橋本左内の菩提寺となる善慶寺に隣接してあったとされる。戦後はその跡地は左内公園となっている。
 洞哉宅跡の碑は左内公園の西南角に置かれている。この付近は寺社地が大半であったが、ちょうどこの一角だけ町屋が置かれていたので、石碑の位置は、洞哉宅があった場所とはそんなに違わないのではないかと思われる。
 洞哉は芭蕉のために、寺の修理作業現場から枕となる木っ端を調達したとの伝承が残っており、木枕の碑が残っている。

 洞哉宅に2泊した芭蕉は

  「名月は、つるがのみなとにとたび立つ。等栽も共に送らんと、……」

 とあるように、十五夜の月を敦賀でながめようと、洞哉とともに福井を出立する。道筋はもちろん旧北陸道である。

0301-02.jpg史跡碑
0301-01.jpg解説板
0301-03.jpg句碑
0301-04.jpg左内公園
0301-05.jpg木枕の碑〔戦前期〕、現在は文字が修復されている


0302-00.jpg玉江の碑(玉江二の橋)
『おくのほそ道』には福井を出発してからのことが、

「漸白根が嶽かくれて、比那が嵩あらはる。あさむづの橋をわたりて、玉江の蘆は穂に出でにけり」

と記している。「白根が嶽」とは白山、「比那が嵩」とは日野山のことである。

 玉江と朝六つ橋の順番が逆になっているものの、北陸道を南下し、花堂にある玉江のほとりをとおり、浅水にある朝六つ橋をわたったことが記述されている。

玉江は和歌の奥義書「和歌色葉」などにもあげられており、古来葦と月の名所であった。「玉江」の正確な位置はわかっていないが、現在の花堂地区の旧北陸道と狐川が交差する地域、現在の「玉江二の橋」付近から江端川にかかる「玉江橋」付近と想定されている。
 この一帯は花堂と呼ばれ、もともとは福井城下の端という端道(はなんどう)の意味といわれる。城下南端の月見(赤坂)から続く民家は当時は僅かで、狐川の北側までは一面に沼地で、戦前もまだ狐川南には水田が広がっていたとされる。しかし、今では狐川、江端川とも改修され、近くには住宅や大型ショッピングセンターなども出来て大きく変貌、かつての沼地や葦の群生の面影は何も残っていない。玉江二の橋のたもとには「玉江跡」の碑が、玉江橋付近の神社には「玉江の郷」碑が建っている。

 浅水にある「朝六つ橋」は、一見どこにでもある橋で、目立たない橋である。
 しかし、古来より歌枕として使われるほど有名であったようで、清少納言が「枕草子」で「橋はあさむつの橋」と称え、催馬楽にも歌われている。

 この地は北陸道と大野方面へ続く美濃街道の分岐点となっていた交通の要所で、江戸期の参勤交代では福井や大野の藩主達等も往来し、宿場町を形成していた。橋の北側付近の北陸道沿いに本陣跡という石柱が建っている。

0302-05.jpg玉江の郷碑(玉江橋)
0302-01.jpg朝むつ橋現況
0302-02.jpg朝むつ橋解説板
0302-03.jpg西行、芭蕉の歌碑
0302-04.jpg本陣跡碑

【洞哉宅跡】

【玉江付近】